知的に生きるヒント

愚かさと懐疑論の境目は? 地球平面説を唱え始めたラッパーと天文学者の対話から

おそらくは一種の炎上商法であろうと思うのですが、B.o.b. というラッパーが突如としてツイッター上で「地球は平面だ」という主張をし始めて、彼に科学的な知見を教えこもうとする他のツイッターユーザーとのやりとりが大きなニュースになりました。

やがては人気テレビ番組「新コスモス」のナビゲーターとしても知られる天文学者Neil deGrasse Tyson氏もやんわりと彼に対してツイッター上で返信を行い、これに対して B.o.b. がディストラックをウェブにリリースし、Tyson の甥も礼儀にのっとって反論のディスをリリースするという騒ぎになっています。いやはや。

この騒ぎはそれとして面白いのですが、より深く考えさせられるのは、このラッパーが「地球は平面だ」としている根拠です。

「お前は教科書に書いてあることを盲信しているのでは?」

B.o.b. が「地球は平面だ」と主張している根拠は主に、「自分はそれをこの目でみていないから」です。目に見えるものをただそれとして捉えているだけでは、地球が丸いことを感じさせる直感的な証拠は少ないので無理からぬのですが、どこまで説明しても彼は頑迷にそうした言葉を拒否します。

「背景の二つの街は16マイルほど離れているけど、二つのあいだにカーブはないじゃないか。説明してみせろよ」と彼はツイートします。16マイル = 25.75km というのは、地球の直径を 6378km の球と仮定した時、円周は 40074km となるのでその 0.06% ほどにしかならないので、カーブはほとんど目にみえないよと教えるひとがいても耳をかしません。

「飛行機で空に昇っても、地平線は常に直線だ。すまんが俺だって信じたくないよ」 と、空の上からなら地球が次第に丸くなるはずなのに直線にみえるのはおかしいと彼はツイートします。飛行機の巡航高度は10000m = 10km 程度で、やはり先程と同じ理由でカーブが見えにくいのも無理はないのですが…。

しまいには、すでに削除されたツイートではありますが「お前は地球の端にいったことがあるのか? それとも科学の本が教えたことを覚えているだけか?」

B.o.b の多少わざとらしい思い込みは笑止かもしれませんが、それは実際に君がみたことなのか、それとも教科書や他人が言っていたことなのか? というのは挑発的で、設問としては有効です。

健康な懐疑論と、愚かさとの違いはどこにあるのでしょう。どこまで自分で調べて、どこから先を他者に任せることが知的に誠実な姿なのでしょうか。

より高い見地で考えている人がいるという信頼

ここに、知的誠実さが要求する二つのバランスがあります。一つは、どんな情報もすぐに真に受けるのではなく、現実的な懐疑の心をもって吟味することを個々人の責任として引き受けるという態度です。それがなければ、科学の反証可能性は機能しませんし、定説をより深くする進歩もありえません。

しかしもう一方で、「地球は平面だ」「月にはウサギがいる」でもなんでもいいのですが、定説や常識に反することを思いついて主張するのなら、それが数百年分の歴史の重みと何百何千という論文や本によって支えられた論理的構造への挑戦であることを理解しなければいけません。いうなれば、専門家や先人の業績の上にしか反論は構築できないのです。

つまり、ある一線で私たちは健全な懐疑論を留保しつつ、専門家の言葉を信頼して受け入れなくてはいけないわけです。これは盲信ではなくて、知的誠実さが求める信頼の姿そのものです。逆に専門家はその信頼を欺かず、誠実にその専門領域を深める義務を負います。

なにもかもを自分で理解せずとも、この信頼の網目があるからこそ私たちは自分自身の限界を越えて、見える地平線の先まで見渡すことができるのです。

Neil deGrasse Tyson氏はもうすこし寛容で、「いいじゃないか」というツイートも発しています。「地球が平面だと主張して困るのは権力者がそれを押し付ける場合で、君が時代遅れにもそれにひたるのを禁じる法律はない」

他人に迷惑がかからない範囲で単純に間違っていることそれ自体を禁じることはできません。それは、いまの常識を新しい時代の常識に塗り替えることを拒否する態度でもあるからです。

ここに、愚かさと、健全なる懐疑論からうまれる知的誠実さとの違いはあるのです。

(figure: By Orlando Ferguson [Public domain], via Wikimedia Commons