知的に生きるヒント

「知性のある検索」を待ちながら二百年前の古地図をめくる

二年ほど前、大英図書館が17世紀から19世紀の書籍のスキャン100万点を写真共有サイトFlickr上にタグ付きで公開するというできごとがありました。

100万点の、普通に閲覧するには膨大すぎる量の地図、図版、挿絵、その他を、インターネットの力を利用してより効率的に整理し、検索することが可能にならないかという試みでした。

いまのFlickrのインターフェースでも、それぞれに100枚ほどの画像が含まれる10238ページの画像アーカイブは隅から隅までみることができるものではありません。

だからその地図に気づいたのは、それがFilckr上では2ページ目で、自分の職業に関係するものだったからにすぎませんでした。19世紀初頭に出版された、北極海の地図です。

空白の地図

その地図は、いまならばよく知られているカナダ多島海や、グリーンランドの北端、あるいはノヴァヤゼムリャの半分が空白になったままでした。

二つ目に気づいたのは、その地図の作成者の名前、ジョン・バローでした。「バロー」アラスカの最北端のポイント・バローと同じ名前。そこでようやくこれが、バロー岬の名前の由来になったイギリス旧海軍省の地理学者であり、北極探検について複数の著作のあるサー・ジョン・バロー准男爵の著作からスキャンされたものであることに思い至ったのでした。

ここまでわかれば、あとはWikipediaがさまざまに好奇心を満たしてくれます。バローはもともと平民の出自でグリニッジの私学校で数学を教えていたところを、教え子の人脈を通じて中国外交使節団の会計係として同行するチャンスを与えられます。ここで中国語に練達し、中国事情について興味深い記事を何本も書いて注目を集めたバローは、帰国後も英国の中国政策のアドバイザーのような立場になります。

のちに海軍省次官に任じられたバローは、自分自身は北極海にいったことがなかったものの、当時はまだ幻の存在だった北西航路、大西洋からアラスカをつなぐ航路の発見のための探検を強く後押ししました。

それが、のちに南極のロス海に名を残すジェームズ・ロスや、全滅したジョン・フランクリンの航海などにつながってゆくわけです。

バローの書籍

Google books

バローは北極探検について1818年の早い段階で “A Chronological History Of Voyages Into The Arctic Regions” 「北極地域における探検の年代記」でまとめ、晩年にそれを “Voyages Of Discovery And Research Within The Arctic Regions, From The Year 1818 To The Present Time”「北極地域における発見と研究の探検記:1818年から現代まで」という本で拡充しています。この地図は、最初の本に収録されたもので、つまりは200年前の北極観というわけです。

驚いたことに、この両者の本はすでに著作権が切れていますので、Googleの書籍検索によっていつでも読めるようになっています。

英語は多少時代がかっているものの、内容は普通に読むことが可能です。15世紀におけるアイスランドやグリーンランドの探検や発見、16-18世紀における探検の進展、そして今後の探検の可能性が、いまとなってはどことなく可笑しい、大真面目な文体で繰り広げられます。

私はこうした探検記が大好物なのですが、時間を忘れて読みふけっていると、なんとも変な笑いがこみあげてきました。

さきほどから、私は居心地の良い椅子の上から一歩も動くことなく、大英図書館に収蔵されていた古地図を目に留めて、そこから連想ゲームのようにジョン・バローの半生について学び、本来はミシガン大学図書館で禁帯出となっている書籍をまるごとAndroid端末にダウンロードして読んでいるのです。

まさに技術の奇跡といえます。

ミッシングリンクとしての、「知性をもった検索」

しかしこの一連の流れにもミッシングリンクがあります。私が最初に偶然この古地図をみつけなければ、この興味の連鎖は生まれなかったという点です。

この100万点の図版のなかには、きっとそうした興味をひくものが何万とあるに違いありません。しかしそれをすべてみている時間もなければ、「興味のあるものを拾ってくれたまえ」という命令に応じてくれるシステムもないのです。

資料をオンラインに置くことはできます。それにメタデータをつけて、図版についての情報を語らせることもできます。しかし私が興味あるものごと、関心のあるものごとにそれを結びつける「知性ある検索」はまだバローにとって北西航路がそうであったように、夢の存在なのです。

そして興味のあるもの、触発される全てのものを目にし、読んでゆけるほど人生は長くはありません。いつもどこかで、探検は偶然に左右され、道半ばにして終えないといけないのです。

「知性のある検索」などは人間の終わりを意味するのかもしれません。でも100万点の図版をみるわけにも、100万冊の本を見るわけにもいかない私を、ほんのすこしでもいいので助けてくれる何かが生まれるときを、未来の水平線上に待ち望んでしまうのです。